2004年の元年に書いた自分への手紙です。
ここに至るまで、時間がかかったけど、これからも、忘れないようにしたいです。
でね、久しぶりに、自分自身、思い出すために、UP。
ちょっとお裾分け。
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【信じるということ】
ダダは自閉症児ですから、この☆の仕組みがよくわかりませんでした。だから、私のことも「母親」とは、最初思ってくれませんでした。
ダダに、私が「母親」であるとわかってもらうために、したことは「便利な人」になることです。自分がしたいことを、すぐさま実現してくれる人。それを確実にしていくことで、わかってもらったのです。
それでも、「母親=信頼できる人」ではありませんでした。それで、私がしたのは、「信じてもらうこと」でした。
つまり、ダダにわかりやすい暮らしを用意する、そして、約束は必ず守る。タームがあっても、必ず守ることでした。ダダは、それで、私を「信頼出来る人」と思ってくれました。
健常児の場合は、この関係は、これほど、意識しなくても比較的作りやすいと思います。それは、人と人との関係性を理解することに障害がないからですね。
普通は、抱きしめたり、触ったり、笑ったりすることで、出来あがっていくものなのです。
だから、MUUに対して、それほど意識して「すぐ実行する」も「環境を用意する」も「約束を守る」もしたことはありません。でも、彼には、「母親=信頼できる人」は、自然にできあがりました。
次に小学生になって、MUUに比べて、ダダのことを「信じる」ということは、なかなか出来ませんでした。
それは、障害があるからでした。
うまく行かないことやわからないことが多いから、全面的に認めるに至るにはなかなか時間がかかりました。
それと、「信じる」ときに、やはり子どもなりのレベルではなく、自分の評価できるレベルというものが、なかなか捨てられませんでした。
けれども、今、ダダがこれほど自由に暮らしているのは、私が、ダダを「信じている」からです。
時間はかかりましたが、「子どもの力を信じましょう」に至りました。そして、私がダダを「信じている」のでダダも私を「信じてくれて」います。
では、MUUはどうかというと、思春期に入り自分の想いを全面的に出してきた時、またMUUを「信じる」というのは、むつかしいものだなと思いました。
やんちゃな友達と遊びにでてしまうとか夜遅くまで帰ってこないとか、まったく学習に見向きもしないとか…そういうことがあると、「信じる」気持ちに揺らぎがでてきました。
けれども、私は、ダダを「信じて」いるのですから、MUUも「信じ」ていきたいです。だから、少々不安でも、「信じる」ことにしました。
多感な年頃だし、敏感なMUUは、私が「不信」な気持ちになると、すぐわかるようで、「僕を信じていないのなら、オカンなんか信じない」と表現してきます。当然そうですね。
一番最初に、「ダダに信じてもらって、私もダダを信じるようになる」は、今「子どもを信じることで、私を信じるようになる」になっています。
これは、ホントに、絵に描けるほど、クリアなことでした。
けれども、それがなかなか出来ない親御さんは多いです。どうしてかな?と考えると、親御さんは、そのほとんどが健常者ですから、たぶん、幼少時代「信じてもらってない」のではないかと思っています。
自分が「信じてもらった」経験がないと、子どもを「信じる」ようにはなりませんもの。
私は、わりと「信じてもらって」というか(ありがたいことに)「勝手にさせてもらった」ので、必然的に、「子ども」=「信じる」は、自然と考えられるようになりました。
それと、たくさんの子供達と接して、確信を得たのは、うまい関係のベースは「信じる」、または「信用してもらう」でしたから。でも、こういう経験がないと、なかなか「言語化」とか「意識化」することはないと思います。
たくさんの親御さんと接して、知ったことは、子育ては「輪廻」かもしれないということ。
けれども、それが、良い方向のものでないときも、断ち切ることは出来ると思っています。
ただ、その人に、与えられた「チャンス」を「学び」「反省」することによってのみ。
これは、「親と子」の話ですが、人と人の関係性のベースも同じじゃないかなと思いました。
たとえば、誰に対しても、不信感をもっていると、「こんなん、しはらへんのちゃうやろか?」「無理かも知れない」「どうせ、伝わらない」「いい加減なことされるかも知れない」「わかってもらえない」…なんでも、悪い方にしか、思考はむきませ
ん。
人を信用できないって、つらいことですね。
こんなことばっかり考えていては、前に一歩も足がでない。それで、こんな風にしか物事を考えられない自分は、とても「卑しいな」とわかりました(以前なら、たぶん、ナルシス的に自虐的に、知らず知らず悦にいっていたかも知れない種類の感情ですけど)。
それで、とにかく、ホントのことはどうであれ、また、なんか「しんどいこと」あるかも知れないけれど、とにかく、ただ「信じる」ことで進もうと、よい意味での「信用」を前面にだすことに決めました。
たとえ「信じた」ことで、裏切りがあったとしても、「不信感」をもって暮らすより、学ぶことも、前に進めることも、きっと多いと思いました。
人を「信じる」のは、単純な思考なのに、とても、むつかしいことだったんですね。
でも、ああそうなんだ…「心を裸にする」ことの1つなんだな…。
たぶん、また「揺らぐ」とも思うし、「ネガティブ」に陥ると思います(それは、まだ、自信がないです。正直、ビビッてるってとこも、あります)。
でも、はじめましょうね。
で、この「信じる」ことに至った経緯とそして、もし、ずっと、「信じる」が持続出来たら、きっと、ダダやMUUや子供達を「信じる」ことに、そして暮らしに大きく活きる、私の力になると思います。
この「発見」は、私を、ちょっと「興奮」させました。
やっぱり、「信じるものは、救われる」んです。
また1つ、楽に息ができるようになりました。良い年のはじまりです。
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自分を信じて欲しいなら、まず、相手を信じましょう。
自分を認めて欲しいんなら、まず、相手を認めましょう。
自分がシアワセになりたいなら、まず、相手のシアワセを考えましょう。
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自閉症のお子さんへも、健常のご兄弟にも、そして、親御さん、祖父母、保母さん、先生、地域の人…みんなみんな、同じだとハルヤンネは想って、暮らしています。
ps.私、哲学はありますが、宗教はありません。
ハルヤンネ@(有)おめめどう
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